5日目 ロンドンデリー・ベルファスト
デリー/ロンドンデリー | ||||
デリー? or ロンドンデリー? 大西洋側のゴールウェイから北上し続け、北アイルランドにやってきました、ここはイギリス領で、ユーロでなくポンドです 前頁で、アイルランドとイギリスの関係の歴史を少し書きましたが、この街はデリーなのか?またはロンドンデリーなのか? デリーの語源はゲール語で「樫の木」という意味です、6世紀にコロンバがこの地に修道院を建てて以来の歴史を誇る町です 宗教改革を断行してローマ教皇と関係を断ったヘンリ8世は1541年、みずからをアイルランド国王とすることを、アイルランド議会で承認させた、こうして形の上でアイルランドは独立した国であるがイングランドと同じテューダー朝の国王の支配を受けるという、同君連合の形態となり、それとともにイングランドから盛んに移民が行われました 1613年、ジェームズ1世の勅許状により都市になることが承認され、デリーの前に「ロンドン」を付ける形で市名がロンドンデリーに変更されプロテスタントの町になります そして、1613〜18年にプロテスタントの入植者たちによって城壁が造られます、最も有名な1688−89年のジェイムス2世の包囲網を105日間耐えたのをはじめ、合計3度にわたる包囲網に耐えてきた、そのためプロテスタントとの人々にとっては、町を救った城壁といえます しかし、アイルランドには国教会はなかなか浸透せず、宗教面ではカトリックが依然として有力なまま続いていました クロムウェルは、1649年、カトリック教徒が多く王党派の拠点となっているとしてアイルランドを征服しました クロムウェルから始まるイングランドのアイルランド征服が完成したことを意味し、これ以後、プロテスタントによるアイルランド支配が進み(植民地)、カトリック地主の土地は取り上げられて、差別されていきます 18世紀後半にはアメリカ合衆国の独立、フランス革命の影響を受けて、アイルランドでも独立運動が始まり、イギリス政府は独立運動を抑えるためにアイルランド併合を実行し、それによって正式国号は大ブリテンおよびアイルランド連合王国となるが、独立運動はますます激しくなります 1931年北アイルランド6州を除く26州がアイルランド自由国となり、イギリスの自治領となった、1931年のウェストミンスター憲章でアイルランド自由国もイギリス連邦を構成する独立国となる そして第二次大戦後、北アイルランドを除くアイルランドが、1949年にイギリス連邦から正式に離脱し、同時に国号をアイルランド共和国とした、ゲール語表記であるエール(アイレ)も残されている 1972年に起きた血の日曜事件では、公民権を要求するカトリックのデモに英国軍が発砲し、26人の市民が命を落とすといいう痛ましい事件が起きています デリーという名称はナショナリスト(英語版)が好んでいて、北アイルランドやアイルランド共和国のカトリック教徒の間で幅広く使われていて、逆にユニオニスト(英語版)の間ではロンドンデリーという名称が好まれるが、日常会話では市内に住むほとんどのプロテスタント教徒はデリーと言っている 一方、市政府の決定により、イギリス国内での公式使用は通常ロンドンデリーとなっているが、アイルランド共和国の都市や州のほとんどでは地図もメディアでも会話でも常にデリーを使っている 2009年4月、アイルランド共和国外務大臣のマイケル・マーティン(英語版)はロンドンデリー出身者でアイルランドのパスポートを所持している場合ロンドンデリーとデリーの両方を選べるようにすると発表した アイルランド共和国での公式道路標識はデリー表記だが、北アイルランドではロンドンデリー(「L'Derry」と略している場合もある)表記である、「ロンドン」の部分を読めなくする破壊行為が行われることがある |
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城壁(城塞)には7つの門があり、その十字の4つの門からの道はザ・ダイヤモンドといわれる広場で交わっています そして、その城壁の上は道になっていて、ぐるっと1周することが出来ます とても素敵な散歩道に見えますが、大砲が供えられ、その銃口は外の市民のほうを向いています 外から見ただけでは分からない深い分断の歴史を感じます、そして今も・・・ |
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城壁の外に向いておいてある大砲(ちょっと不気味) 血の日曜日とは、1972年1月30日、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進中の市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃された事件です |
血の日曜日で、犠牲になった少女の壁画 14名死亡、13名負傷、事件のあった地区の名を取って「ボグサイドの虐殺(Bogside Massacre)」とも呼ばれる これに抗議して、翌日全土でゼネストが起きる |
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城壁の外、かっての川底に追いやられる貧しいカトリックの人たちの住まいをボグサイト(沼地側)と呼ばれる地域です | 左の写真とつないだ右側で、この中央の広い(両写真の真ん中 )道路をデモ隊が歩いていて英国軍の銃撃に遭う | |||
では、これから、城壁の上の道に入り見学を始めます 真ん中の広場がザ・ダイヤモンドとあります |
一番最初に見た門です(地図上で真下でない左側の下です) | |||
2番目に見た門の横にはARTILLERY STREETと通りの名前が書いてありました (地図上で左横です)ビショップ門 | 2回目に見た門を過ぎたところから〜城壁の上の道に上がることが出来ます、門があります(左上の道の色) | |||
聖コロンバ大聖堂、1633年に建てられた大きなプロテスタント教会です | 城壁の外を 見張る棟のようです | |||
城壁の外の通路ですが、真ん中に見える塔は牢獄だったとか | 学校もあります | |||
長老教会 | 博物館 | |||
城壁の上の道を下り、メーンストリートに出るとすぐに中心のザ・ダイヤモンドの広場に出ますWar Memorialのモニュメント、後ろは老舗のデパートです | メインストリートを引きで撮りました 車も多く通ります |
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メインストリートは下り坂になり城門があります、その向こうに高い塔が見えるのはギルドホールです | メインストリートを下り、そこにある城門を出ます シップキー門です (地図上の右側横の門です) |
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城壁から出るとすぐに目につく建物が、写真のネオ・ゴシック様式のギルドホールです 市役所として使われているそうです |
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ギルドホールの中にある綺麗なステンドグラスです 歴史の場面を描いたとされる |
階段上のステンドグラスも素敵でしたが逆光です、しっかりした作りでしたが、爆破され再建されたそうです | |||
城壁外にも広がる裕福なプロテスタントの住まい、道沿いのブロックに赤、青、白と3色に塗り分けられたところはプロテスタント以外は立ち入り禁止というしるしです | 望遠で撮りましたが 、貧しいボグサイドの丘にあるカトリック教会で、高い塔が見えます |
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ベルファスト | ||||
シティホール 北アイルランドの首都で、小さな漁港だったのが、造船業を中心とする工業によって、ヴィクトリア女王の統治の時に大きく発展し、一説にはアイルランド独立後もイギリス領に残ったのは、ベルファストの工業力のためとも言われています ここには世界最大のドライ・ドックがあり、ハーランド・アンド・ウルフの造船所にある巨大なクレーンを遠くから眺めることができます、ちなみにオリンピック号、タイタニック号、ブリタニック号の姉妹船はハーランド・アンド・ウルフによりここで造られました |
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シティホールの前面中央にあるのはヴィクトリア女王像です 見学するときに雨が降り出し、ポンチョを着ました |
ベルファストのランドマークで、アルバルト時計塔です 大都会で、通りも広いです |
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ベルファスト大聖堂とも呼ばれるロマネクス様式のセントアン大聖堂です | 大きな魚のモニュメントです | |||
タイタニックス・ドッグ&パンプ・ハウス タイタニックス・ドッグはタイタニック号とその姉妹船オリンピック号を収容できるように造られた当時世界最大の乾ドッグです タイタニック号はベルファストを出発する直前までここに収容されていました あの映画を思い出して、このドッグを見るだけでもドキドキします、想像以上に大きな船ですし、最新技術が駆使されていたのに沈没するのですから・・・ ドッグは注排水するために、横に建っているパンプ・ハウスはそのための動力室で、当時最先端の技術を用いた産業遺産です |
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当時の写真です、姉妹船と並ぶ姿は壮観です そう言えば「タイタニック]の主人公の貧しい青年はアメリカへ出稼ぎに行くためにタイタニック号に乗ります、てっきりイギリスの話と思いましたが、この北アイルランドがイギリス領なので、間違いではなかったのですが、勉強になりました |
2012年タイタニック沈没100周年行事の一つとして 、このタッタニック・ベルファストの6階建ての巨大な建物が建てられました(大きくてカメラに収まりきれない))、中はタイタニックに関する展示ものばかりで、土産物も多数あります |
食事・その他 | ||||
昼食
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サラダ | ウインナー | |||
お洒落なデザートとコーヒー | ||||
翌日の朝食 | ||||
夕飯は撮り忘れたようです | メインストリートで見た赤い色のポスト、北アイルランドはイギリス領です、アイルランド共和国のポストは緑色でした |
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