3日目 世界遺産・国立自治大学 B
    

メキシコ国立自治大学の中央図書館の壁画

メキシコシティのホテルに3連泊での観光はとても楽です、これまではメキシコシティやその周辺でしたが、今日は少し遠出なので、ホテルを8時に出発しました、やはりメキシコシティは車の量が多く、空気が淀んでいますが、1時間も来ると郊外は青い空が綺麗です。
メキシコシティの印象としてはスペイン風で、もっとメキシコメキシコしたものを描いていましたが、支配するということは、あったものを破壊し、スペイン風に自分の街として作り替え、植民地化することなんだと理解することができました。
もっとも、これから地方へ出れば、メキシコその土地その土地の風土や歴史を感じることができるでしょうから、ますます楽しみです

上の写真の図書館の壁画は世界最大規模で、ファン・オルゴマンによる自然石を使ったモザイク画で、着色してある訳でははないので、剥げることはありません、思わず箱根細工(色違いの天然木の寄せ木細工)を頭に浮かべました。
素晴らしく豊富な色合いで、建物全体4面にテーマがあり、北側はアステカ文明、南側はスペイン植民地化の圧制、東側(写真)は太陽と月、宇宙、科学、政治、西側はこの大学の校章を中心としています

またこの大学のまえの通りを挟んで、向き合っているのがオリンピック会場です
 
 
 
    オリンピック会場
     
         
  1963年(昭和43年)、東京オリンピックの次のオリンピックの開催地でした、また決定にはあまりにも高い海抜(2240m)の地理条件から空気が薄いため反対の声も挙がった一幕もある   そのメキシコオリンピックのメイン会場に使われ、その後はサッカー競技場になっているそうです
ここは気温が低くて、もっているものを全部着てもまだ寒いぐらいでした
 
 
 
 
   その会場に描かれた画が、正面入り口の上にはディエゴ・リベラ(1886〜1957)の壁画です
メキシコシティの国立宮殿内の大壁画「メキシコの歴史」を見れなった、その壁画がこのディエゴ・リベラの作品でした
メキシコの壁画運動というのは、1920年民衆のための芸術を興すというダビッド・アルファロ・シケイロスに共感しホセ・クレメンテ・オロスコと共に3大壁画家として活躍します
壁画運動は社会主義運動の一翼を担うものとして、民衆の啓蒙運動、ヨーロッパからの脱却、歴史教育の一環として行われました
メキシコ革命(1910年)後の1920年代以降、メキシコの民衆に向けて、ルーツへの回帰や歴史、人びとの結束を訴えました言葉が読めない人にも、壁画を見ただけでメッセージが伝わるように、公共の場に描かれているものが多い 
 
    国立自治大学
 
     
         
  とにかく広くて緑に恵まれ、皆でこういう大学生活を送りたかったね、と羨ましく思いました   こちらが、中央図書館の壁画です、ブルーのシートの部分は工事中でした、素晴らしい天然の色合いです   
 
 

 
    「民衆から大学へ、大学から民衆へ」1952〜1956,上で名前が上がったダビッド・アルファロ・シケイロスの作です  
 
 

 
  60人以上の建築家や技師が統一性を持って作り上げたこの大学都市は、その顕著な普遍的な価値を認められ、2007年にユネスコの世界遺産に登録されました  
         
  世界遺産・ ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群
 

 
 
    「ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群」は、メキシコの世界遺産リスト登録物件の一つである,メキシコ中央部のポポカテペトル山近くにある修道院群は、16世紀にフランシスコ会士、ドミニコ会士、アウグスティノ会士たちによって建立されたもので、広大な範囲の土地で暮らしていた非常に多くの人々を、短期間にキリスト教化する上で中心的な役割を果たした
 クエルナバカの中心にあるカテドラルで、1529年に建てられ、アメリカ大陸最古と言われる教会です
 
大聖堂は、隣接するフランシスコ会修道院の祭礼の場所として1533年に建造が始まった。並置されている礼拝堂はゴシック様式のリブに支えられたヴォールトを持つ建物で、1536年から1538年に建てられたものです
 
 
 
     
  十字架の下にどくろが描かれているのは、先住民的思考を取り入れ たのかもしれません   敷地は高い石の塀に囲まれており、外敵の襲撃に備えているようで、その外敵というのは先住民のようです  
 

 
    1957年の修復で、壁を覆っていた石灰を取り除いたところ、18世紀の壁画が出てきました、そこにはメキシコ出身の聖人フェリペ・デ・ヘスス一行の日本到着と殉教が描かれていた、とのことです
ローマ字で、TAIKOSAMAと豊臣秀吉のことが書かれています 
  1597年2月に行われた「日本聖人26人殉教」の図で、京都市内引き回しの後、長崎で槍で、処刑される図が詳しく描かれていました、
服装が日本と違うのは、描いた人がベトナムの人だったので、その国の服装になったと言われています 
 
          
  カテドラルの内外ともとてもシンプルで飾りが少ないです   礼拝堂の後ろ側ですが、とてもシンプルです  
    町の散策
 
     
         
   石畳が敷かれ、スペイン風の街並みはコロニアル調です   町の中心部になる市庁舎(右の写真)で、石畳が広がりま   
         
  ソカロに建つ像は、征服者コルテスで、その向こうにあるのがコルテス宮殿です、この町に住みつき、コロニアル都市として発展させます    ソカロの向かい側にある公園で先生たちのデモと集会で大声が上がり、パトカーが来て通行止めになり、、私たちも徒歩で散策しました、応援で子供たちがバスでやってきます   
 
 「銀の町」タスコ
 
 
   
 
  メキシコシティの170km南西にあり、18世紀の壮麗な建物が並ぶタスコは、スペイン人 によって北中南米最初の鉱山が造られた銀の発掘で栄えた高原の町です
その後鉱山以外の大きな産業がそだたなかっため、狭い傾斜地にコロニアル調の古い街並みが美しく残っています
先住民の住む土地に、1524年から銀鉱脈を探す鉱山師たちが住みつき、タスコの町が造られました、そして1743年にフランスから来た鉱夫ボルダが大鉱脈を発見し、伝統的な[シルバー・ラッシュ」がはじまります
 
          
   大金持ちとなったボルダはお金を惜しみなく使い、豪華な教会や庭園を次々と建てていきます、その教会が見えます    レストランに置かれた、鉱山で使われていたと思われる台車  
          
   綺麗な石畳の白い壁の家が続きます   この町で土産物を売っているの人たちはほとんど先住民の人たちです、これで生計を立てているのでしょう   
         
   道が狭いので、普通のクルマは通行止めで、白いフォルクスワーゲンがタクシーとして使われています   カテドラルの前にある公園で、くつろぐ人たちで、町の中心地で、そばに市場もあります  
 
  サンタブリスカ教会
     
 
 
 
  タスコの銀鉱王ボルダが「神はボルダに富を与え、ボルダはこれを神に捧ぐ」という家訓を実行し、町寄贈したチュリゲラ様式で飾られた豪華 な教会です  
         
   もう至る所が豪華絢爛で、贅を尽くして作られたのがわかります   祭壇の奥の部屋には絵画展示室があり、スペインで最も有名だった画家に描かせた作品があります   
 
 食事
  
     
  昼食       
 
 
 
 
 
  レストラン・ポサーダ・デ・ラ・ミシオンで食事です 、そこからのタスコの町の眺めが素晴らしいです(上の写真)   スープ   
 

 
 
  メローのフライです    デザート、かけてあるチョコレートが甘いです  
 
夕食
   
 
   
 

 
 
  タコス専門店の カサ・デ・パストルで夕食です   ドネル・ケバブを焼く店員さん   
   
     
   タコス2種×2個で、美味しかったです      
         


 




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