6日目後半 民家訪問・メリダ
     
 
  石垣が積まれた、黄色い外壁のお家で、マヤの末裔の一般家庭への訪問です   漆喰の壁の部屋にはタンスに、真ん中にハンモック が掛かっていて、昼寝をするそうです、この部屋は涼しいのかも知れません  
         
  最初のハンモックのある建物を出ると中庭になっていて、現地の建物でしょうか、茅葺の屋根の建物があります   すけていて風通しがよく、ここで、おばあさんと、お母さんで、トルティ―ジァを実演で焼いて試食させてくれました
味は独特のエグミがあり、これに慣れないと美味しいと感じられないかも?と言えます
 
         
   その建物を出ると広い庭になっていて、洗濯機置き場や、洗濯物干し場になっていて、鳥や豚が飼われています   日本の昔の田舎に似ていると感じました
家族が多く、自給自足的で、いくつも建物があり、孫祖父母と居て、広い庭では畑もしていて・・・、という具合でした
 
   メリダ
     
 



オーラン病院の野口英世像
 
 
  無数のマヤ遺跡が散在するユカタン半島の州都、町の中心地は植民地時代の面影を色濃く残していて味わいが深い町です
1642年にフランシスコ・モンテホ率いるスペイン軍に占領されて以来、内陸部の先住民を制圧する基地、そして先住民に対するカトリック改宗の基地として機能しました
また、メリダは黄熱病の研究で有名な野口英世が足跡を残した地であります
黄熱病を研究したオーラン病院には、今も博士の銅像が建っています 、日本とゆかりのある地域です
ポポカテべトルのカテドラルに、秀吉の行った、日本聖人26人の処刑の図がありましたが、これは絵ですが、日本人でメキシコに立ち寄った人がもう一人いました

江戸時代にエスパーニャ(スペイン)との交流ができたことにより、支倉常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定し、遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになりました
その時、太平洋を渡り、アカプルコに上陸し、陸路メキシコシテイに入り、青いタイルの家というところに宿泊し、大西洋からローマに行った日本人でした、この時代に、荒波を越え、また日本に戻ることが出来たのも驚きです
ただ、(1620年9月20日)に帰国した時はキリスト教は禁止され、通商条約が結ばれることはありませんでした
 
         
   野口英世がメリダを訪れたのは1919年のことです、メキシコで黄熱病が大流行したした年で、蚊が異常に発生し、特に低地の都市が狙われ、メリダがその中心となりました
当時彼は黄熱病の原体を発見したばかりで、メリダの医者の間ではすでに名が轟いていました、写真はオーラン病院
  気温35℃で、 街中の歩道は広く、建築物もコロニアル様式です
熱帯地方の街路樹に絶えず小鳥が鳴き、花が咲きとラテンアメリカそのものの雰囲気で、大きな街です
 
     
  街の様子    エル・コンキスタドールに宿泊、シックな雰囲気の部屋です   
   食事その他
   
  昼食  
   
   
 
  ウシュマル遺跡の施設内にあるレストラン・ヤシューベで頂きました、スープです   チキンポークです  
   夕食      
 
 
   
 
  ホテルのレストランで頂きました、サラダ    ポークグリル   
   
 

   
 
  デザートのケーキです    恨みのポストです、添乗員さんが苦労して日本までの切手を集めて下さり、このホテル前のポストに8通投函したのですが、日本に一通も着かず、これまでで初めての経験でした   
  翌朝の朝食       
 
 
 
   
 
  パンケーキも美味しく、進みます    フルーツとヨーグルトも頂きました   
  朝の散策       
         
  緑が豊富で落ち着く街です    ソンブレロ売りに、おどける外人観光客、お買い上げです   
         


 






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