2日目 ワルシャワ歴史地区、ショパン音楽祭
2日目 ワルシャワ歴史地区(世界遺産)
|
|||
世界遺産・旧市街地市場 |
|||
ポーランド共和国
ヨーロッパの中央に位置し、 面積、32.3万平方キロメートル(日本の約5分の4,日本から九州,四国を引いた程度) 人口は約3,889万人(2012年:IMF) 首都ワルシャワ(171万人) ポーランド人(人口の約97%)で、言語はポーランド語、カトリック(人口の約88%) 国際日、5月3日(憲法記念日),11月11日(独立記念日) 10世紀に建国。15〜17世紀には東欧の大国を形成した。その後衰退し、 18世紀末には3度にわたり,ロシア,プロシア,オーストリアの隣接三国に分 割され,第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消す 第二次大戦ではソ連とドイツに分割占領された 大戦での犠牲者は,総人口の5分の1を数え,世界最高の比率です 大戦後は,ソ連圏にくみ込まれたが,「連帯」運動(1980年代)など自由化運 動が活発で,東欧諸国の民主化運動をリードした。1989年9月,旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した 「欧州への回帰」を目標に,1999年3月にNATO加盟,2004年5月にはEU加盟を果たした |
|||
文化科学宮殿
|
|||
ディフラト広場にそびえる37階建ての高層ビルです、塔の高さは234m、部屋の数は3288もある
内部には科学アカデミーをはじめとする各種研究所、ポーランドTV,3000人を収容できるコンベンションホール、コンサート ホール、映画館、劇場などが入っている スターリンからの贈り物として、1952年から4年もかけて建てられたもので、建物その自体はワルシャワ市内のどこからでも 見えて、目印になるが、高層建築の少ないワルシャワの町には似つかわしくなく、権威的な建物とも言え、市民の間では、 「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼ばれている |
|||
公園内にある、戦争中、子供たちを守った先生の像です | 公園の近くにあるユダヤ人の教会 | ||
ジェラゾヴァ・ヴォラ( ショパンの生家) |
|||
F・ショパンの生家ジェラゾヴァ・ヴォラまでは、ワルシャワからバスで1時間(54km)、牧歌的な景色が続きます
|
ショパンのコンサートのポスターです、今夜参加します
ショパンはマズルカ、ポロネーゼなどポーランドの民族音楽を 、洗練されたピアノ曲として生まれ変わらせました |
||
ポプラ並木の続く公園内に位置するF・ショパンの生家とその前にあるショパン像です
その屋敷がそのまま公園となり、ショパンの生家が残されま した、ショパンはすぐ家族とワルシャワへ転居する |
父親のニコラ・ショパンはフランス人でしたが、ポーランドに住
みつき、フランス語が堪能であったニコラは知られた存在とな り、貴族の家庭教師をしてこの広大な邸宅の中に住んでいま した |
||
ショパンが生まれた部屋(このピアノの部屋の隣)、出生証
明書、ショパンが幼少時に始めて書いた楽譜の複製など貴 重な品を見学できるショパン博物館になっています |
ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた、父ニコラは
フルートとヴァイオリンを演奏できたし、母ユスティナはピアノ に長けていました、ただショパンが最初にピアノを教わったの は姉のルドヴィカだったそうです |
||
1万uもあるといわれている敷地は、1万本を超える世界各
国から贈られた植物が植えられ、緑で埋め尽くされ、日本シ ョパン協会から贈られた 桜の木も玄関わきにあります |
庭園にあるショパン像(左上)は彫刻家ゴスワフスキの作です
、ここで数匹のリスを見かけました、上の写真はリスが木にの ぼる姿が撮れました |
||
ワジェンキ公園 |
|||
ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられ、ワルシャワ
市民の自慢の種でもある、この公園は18世紀にポーランド最 後の王となったスタニス・アウグスト・ボニヤトフスキの命によっ て、1766年から30年もの歳月を費やして造営された |
ワジェンキ宮殿は王の夏の離宮として建てられたものです、
(私たちは宮殿は見ていません) 公園のすぐ入り口にある広場にアールヌーヴォー様式のしだ れ柳の傍らに腰掛けるショパンの像があります |
||
このショパン像は1926年に造られたもので、公園の壁に、その制作過程の写真がありました
|
これらの写真を見ていくと、その大きさがよくわかります | ||
コペルニクスの像 | ワルシャワ大学 | ||
地動説を唱えたコペルニクスの像 、奥はポーランド科学アカ
デミーの建物です |
ワルシャワ大学の正門、1823-29年ショパンもここで学ぶ |
||
聖十字架教会 |
|||
この教会は17世紀の終わりにユゼフ・べロッティの設計で建てられましたが、2つの塔を持つファザードはユゼフ・フォンタナとヤクブ・フォンタナによってつくられました。教会の入り口へのぼる階段の上には十字架を背負ったイエス・キリスト像が建っています、この教会には3つの身廊・側廊があり、2階建てになっています
第2次世界大戦中ドイツ軍は他の建物同様この教会もダイナマイトで爆破し、その際には3分の1が破壊され、戦後建てなおされました |
|||
|
|||
下の階にはお墓があり、上の階にはたくさんのポーランドの著名人の墓碑銘や追悼文が飾られています、ここはショパン一家が通っていた教会でした、ただショパンは21歳から39歳で亡くなるまでパリに住んでいました
身廊に向かって左から2つ目の柱にはショパンの心臓が入った壺が安置されています(右上の写真) フレデリックの姉ルドヴィカは弟の望みを聞き入れ、祖国へ彼の心臓を持ち帰りました。 1878年、ショパンの心臓は聖十字架教会の柱の中に安置されました。その2年後、ショパンの心臓の場所はショパンの胸像と追悼文が刻まれたプレートで飾られました。 ワルシャワ蜂起の時、ドイツ軍はこの柱からショパンの心臓の入った壺を持ち出し、ワルシャワの教会の管理者であったアントニ・シュラゴフスキ司教に委ねました。司教はそれをミラヌヴェクという小さな町の神父の館に隠しました。戦後、ショパンの没後96周年であった1945年10月17日、偉大な作曲家の心臓は聖十字架教会へ戻されました |
|||
旧市街地広場 |
|||
エリアの中心は旧市街マーケットプレイス(市場広場)であり、伝統的なポーランドのレストラン、カフェ、商店がある
通りを囲むように、優れた中世の建造物がある、たとえば、城壁、城楼(barbican)および聖ヨハネ大聖堂(St. John's Cathedral)などです 1980年ユネスコ世界遺産に登録されたワルシャワ歴史地区は、例外的な世界遺産といえるでしょう、戦争によって灰燼に帰 した町並みが完全な姿で再建され たとはいえ、再建であることに変わりはないからです、第二次世界大戦中に大破されたワ ルシャワの旧市街は、昔の絵画や町の破壊を予期して人々が描いた スケッチ、写真などをもとにして、レンガのひびに至る まで丹念に修復され、見事に中世の町並みは復活しました、 ワルシャワ歴史地区が世界遺産に登録されたのは、建物自体の歴史的な価値というよりは、首都再建を願ったポーランド国 民の情熱がユネスコによって高く評価されたからでした 建築家や修復専門の技術 者の協力、そして戦後60余年という時間の流れのおかげで、今では歴史的建造物の本来あった 部分と再建された部分のちがいはまったくわからなくなっていま す ワルシャワの地に人々が定住したのは10世紀頃のこと、13世紀末には、現在王宮のある辺りを中心として町が形成されました、1596年にはジグムント3世によって首都がクラクフからワルシャワに移され発展を遂げました、その後の時代も首都として、戦乱を乗り越えて政治・経済・文化・学問の中心地として栄えてきました |
|||
川越しに王宮が見え、その前に市場広場があります
高い石柱の上に十字架を手にして建っているのは1596年 にポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ移したジグ ムント3世です |
現在博物館になっている旧王宮です、王宮の住居だっただけ
でなく文化、政治、経済の舞台でもあり、美しい宮殿のひとつ でした、ここも第二次大戦で破壊されましたが、「王の広間」に あった最も価値の高い調度品は国外に持ち出されていて難を 逃れたそうです、復元作業が完成したのは1988年です |
||
公園の中央に以前はバルバカンそばにあった人魚像が剣を振り上げている像が中央にあります |
|||
ポーランド首都のワルシャワは、「北のパリ」と呼ばれたこと
もある洗練された美しい街でしたが、第二次大戦中、ほとん どの建造物が跡形もなく破壊されたという歴史を持ちます 左上の写真が破壊された街並です |
大戦終了後にワルシャワ市民達が過去の絵や写真、生き残
った住民の記憶を元に「壁のひび1本にいたるまで」忠実に再 現したと言われています 1980年世界文化遺産登録 |
||
歴代の王の戴冠式や憲法宣言式など多くの歴史的行事が
行われワルシャワで最も古い教会、14世紀に建てられ、最 初にオルガンが作られた教会です |
バルバカンという15〜16世紀に造られたバロック様式の砦
です、これは火薬庫や牢獄として使われていました これも破壊され1954年に復元されました |
||
キューリ夫人博物館 |
|||
展示室の様子です
放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノー ベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した 放射能 (radioactivity) という用語は彼女の発案による |
|||
ワルシャワ蜂起碑 |
|||
|
|||
クラシンスキ公園の東側にある記念碑。第二次大戦末期の1944年に、ワルシャワ市民がドイツ軍に対して一斉蜂起したがド
イツ軍の反撃をうけ、ソ連軍の援軍も得られず孤立したまま約20万人もの死者を出したという「ワルシャワ蜂起」を記念し、 45周年にあたる1989年に造られた 2002年公開の第二次大戦におけるワルシャワを舞台とした映画『戦場のピアニスト』(原題: The Pianist)は、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリスの合作映画ですが、このワルシャワ蜂起で、ドイツ軍により壊滅状態となった街並を描き出していました |
|||
実物大の2倍ぐらいの大きさで、苦渋に満ちた表情ながら、躍動感と気迫に溢れ 、今にも動き出しそうな気配があります
|
|||
大統領官邸 | ヴィジトキ教会 | ||
貴族ラジヴィゥ家の館でしたが、1765年に館の一部を劇場と
して開放し、ポーランドで初めてのオペラが上演された、ショ パンもここで初めてのピアノ演奏会を開きました、1994年か らはポーランドの大統領官邸として使われています この4月に大統領専用機が墜落し大統領夫妻が亡くなられ 、十字架に花が添えられていました |
ヴィジトキ教会は18世紀に後期バロック様式で建てられ第
二次世界大戦にも奇跡的に破壊されなかった、内部の装飾 が美しいそうです ワルシャワ大学に中・高等学校がおかれていたころショパン はこの教会の日曜ミサでオルガニストをしていました |
ショパン音楽祭
|
|||
「ワルシャワ・フィル」と呼ばれることが多いこのホールは、5年に一度行われる《ショパン・コンクール》の本選会場として有 名です、その会場で生演奏が聞けるなんて本当に幸せです、ホテルで着替えてちょっとだけ気取って会場入りします |
|||
ショパン生誕200年祭として8月1日から31日までプログラム
が組まれています、こちらは27日のプログラムです マルタ・アルゲリッチは1965年にショパンコンクールで優勝し 、審査員もしています、残念一日違いです |
「ショパンと彼のヨーロッパ」と題し、影響を受けたヨーロッパ の作曲の演奏です、始まるまで時間があるので、会場周辺 の散策です、まずエントランスで、テレビの中継でたまに見 るだけですから、 もうすべて何を見ても感動します |
||
こちらエントランスの中央にあるオブジェです | 階段から、ホールを見る、格調があり、良い雰囲気です | ||
|
|||
会場内は、 こんな雰囲気です、もちろん演奏前のチューニングの時間です、席は後ろの方でした、本日のプログラムは 8月26日 ショパン国際音楽祭 ソプラノ:クリスティアーネ・イヴァン ピアノ・指揮者:クリスティアン・ツァハリアス オーケストラ:ローザンヌ室内管弦楽団 クリスティアン・ツァハリアスは2000年から現在までローザンヌ室内管弦楽団の芸術監督兼Chef titulaireを務めています、
ピアノを弾きながら指揮をするスタイルは、生でははじめての経験でした、ピアノの位置も違いましたし、ピアノを弾いて、そ の間に立ちあがって指揮をしたりと、クリスティアン・ツァハリアス氏はとても躍動的で情熱的でした、 日本でも海外演奏家の方のコンサートを見ていますが、客席もほぼ地元の方だと思いますので、観客の反応が日本と違っ て、こちらも情熱的で、その雰囲気に飲み込まれました 演奏者と客席が一体となり、アンコールが盛り上がり、お約束という感じではなく、客席の喜び、演者を讃える反応が、演奏 家に伝わり、指揮者も嬉しくて仕方がないという感じで、何度もアンコールに応え礼を述べていました、ここは、やはり日本と は違う音楽の歴史を感じました |
|||
食事、その他
|
|||
昼食 | |||
前菜 | メイン | ||
デザート | 地下にあるレストラン | ||
街並
|
|||
ワルシャワの新市街地にあるホテル前です このバスでポーランドをツアーしました |
公衆電話、用途が違うのでしょうか ? | ||
メイン道路を走るトラム | かっての”王の道”、破壊され尽くし、戦後再建されました | ||
ボタンを押すとショパンの曲が流れるベンチです |
Wroclow、 Warszswa、 Krakau、 Wroclow、 Warszswa、 Krakau、 Wroclow、 Warszswa、 Krakau、
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||