四日目 サンクト・ペテルブルグ「エルミタージュ」



   サンクトペテルブルグの創建は1703年、ピヨートル大帝がロシア近代化の要としてバルト海に開かれた港と要塞を築いたことに始まる、沼沢地での建設は困難を極めた
運河を彫り、杭を打ち、建材を運搬し雪解けの洪水とも戦わねばならなかった、このため使役された捕虜のスェーデン兵やのうど万人以上が、疫病や飢えなどで命を落としたともいう
それでも建設は進み、彼は自分の守護聖人から、新しい町をドイツ風の「サンクトペテルブルグ(聖ペトロの町)と名付けた
1712年には帝政ロシアの首都がモスクワから移され、以後”西欧に開かれた窓”たるサンクトペテルブルグは発展を続けることになる
 
     

デカブリスト広場にあるピヨートル大帝像「聖堂の騎士」
1872年カテリーナ2世によって建立されました
馬が踏みつけている蛇はスウェーデンを表しています
こうして帝政ロシアの首都 サンクト・ペテルブルグは、ヨーロッパで最も美しい町の一つに数えられる
ロマノフ王朝の栄華と終焉、革命の理想とその挫折、ナチス・ドイツによる包囲網の悲劇と、その短い歴史の中で、サンクト・ペテルブルクは非常に多くのことを経験してきました、サンクトペテルブルグ、ペトログラード、レニングラード、そして再びサンクトペテルブルクと移り変わった町の名にも、それが表れています
   
エルミタージュ美術館(世界遺産)

     
 
 
 
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった
1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。この統合作業は第二次世界大戦後に完了した
 日本ではたびたび「エルミタージュ展」は開催されて、馴染の作品も多いです、それだけ貴重な作品を収蔵しているということが言えます
 
   
   
 
 
冬宮 、名前の通り皇帝が冬に過ごす宮殿で、最初はピョートル大帝時代の1721年に、現在のエルタージュ劇場のあるあたりに建てられた,,宮殿広場にあるアレクサンドルの円柱
   エリザヴェータ―女帝の時代に、ラストレッリの設計により現在の冬宮の建設が始まっている、バロック建築の壮大な建築が完成したのは1762年、エリザヴェーター死去後  
 
 
 
  印象派以降の絵画は、新別館(ブランチ館)に移動しています。宮殿広場を挟んだ向かいにある旧参謀本部ビル内にあります、ここでハプニングが
美術館内の現地ガイドが当日に病欠(?)で、エルミタージュ美術館のチケットが届くのを1時間近く待ちました。
その結果事前予約の「黄金の間」の予約が取れなくなり入れなくなりました,午前中はこちらの見学をしました

  2つ目のハプニングは本館へ行き、行列に着いたのですが、大雨が降りしきる中1時間以上も並ぶことになりました。
運悪くバルト海にクルーズ船が到着したらしく、何百人単位のヨーロッパ人の方と、ロシア各地で遭遇した大量の中国人観光客と一緒になりました。最初4列で並んでいたはずが、入り口近くになると16列ぐらいに膨れ上がり、私たちは中国人観光客の中にサンドされる形になり、最後列に付かずに、横入りしてくるので膨れ上がり大変でした。
まだこちらの美術館では整理員は置いていないようで押し合いへし合いの体力?勝負?でした。(笑)
 
   
 
 
ネヴァ川(観光客が列を作って並ぶ宮殿広場の反対側)から見たエルミタージュ美術館の建物群:左から、エルミタージュ劇場 ? 旧エルミタージュ ? 小エルミタージュ ? 冬宮殿 (新エルミタージュは旧エルミタージュの背後にある。)
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりです。エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。
1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。この統合作業は第二次世界大戦後に完了した
総収蔵品は約300万点とされるため、全てを詳しく見るのは困難です


 
   新別館(本館)の見学 (19〜20世紀のヨーロッパ美術)


  印象派以降の絵画は、新別館(ブランチ館)に移動しています、宮殿広場を挟んだ向かいにある旧参謀本部ビル内にあり 、午前中はその見学をしました  
 

 
 
 
ルノワール「センスを持つ女」 (もちろん他の作品もあり)
  ゴッホ「ライラックの木」1809年   
         
  ピカソの青年期の作品があります   マチス「ダンス」 
ゴーガンの作品もあります
 
 
 イギリス美術やドイツ美術の部屋もあります、東洋美術もありますし、もちろんロシア美術もあります
     
         
宮殿装飾 

   
   

大使の階段
 
   エルミタージュ美術館の特徴は、宮殿として実際にエカテリーナ2世をはじめとするロシア皇帝(ツァーリ)の住居であったということです。ここが世界三大ミュージアムとともに世界三大宮殿のひとつとされている所以です
エルミタージュを構成する、冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、劇場エルミタージュの五つの建物は、19世紀から約百年かかって完成されました
 
         
   
大使の階段はラストレッリにより造られたロシア・バロック建築の極致であります
  大使の階段を上り冬宮2階を中心とした宮殿装飾を見て回ります   
       
 
  ピョートル大帝の間 
女神とピョートルが描かれています
   紋章の間
銀器の展示室でもあります
 
   
     
  1812年 祖国戦争の間   聖ゲオルギーの間
 謁見に使われた大玉座
 
   
     
   
パヴィリオンの間
  孔雀の時計(パヴィリオンの間に置いてある)   
  イタリア美術・その他 

新エルミタージュのイタリア絵画
     
   
     
 
レオナルド・ダ・ビンチ「りッタの聖母 」
と「ブノワの聖母」の2作品があります、額ごとガラスケースに入っていますから貴重品です
非常に数少ないレオナルドの絵画作品を複数所蔵するのは、ルーヴル美術館(4点)とウフィッツィ美術館(3点)に次ぐものだそうです
  ラファエロ の「聖家族」
「コネスタビレの聖母」もあります
 
 


 
  ミケランジェロの「うずくまる少年」

 
   猪と格闘する青年の像  
     
  レンブラント「放蕩息子の帰還」 
レンブラントの作品が20枚以上所蔵されているレンブラントの間
  ルーベンスの作品群
フランドル美術の間にあります
 
         
  エル・グレコ「使徒ペテロとパウロ 」
スペイン美術の間
  ゴヤ「アントニア・サラテの肖像」
同じくスペイン美術に充てられた 部屋に あります
 
 
   
 
   古代ローマの彫刻がずらりと並びます   
ジュピターの間
 
 
 
     
  写真の古代エジプト関係をはじめ、シベリア関係、古代中近東関係、極東と中央アジア関係、ビザンチン関係、ユーラシア原始文化関係などの部屋があります   エルミタージュ美術館の側を流れるネヴァ川  です
 
         




   
 
イサク聖堂

  
 
   


 帝政ロシアのシンボルとして、1858年に完成した大聖堂、世界で最も大きな教会建築の一つです
高さ101、5m、左右の幅が97,6m、奥行きが111,3m、収容人数は1万4000人を誇る
イサク聖堂の名前は、ビザンチンの修道士であった聖イサクに由来する
1710年初代木造建築がピョートル大帝によって建てられる、1717年には2代目、1790年には3代目が建てられ、現在は4代目です
4代目は実に完成までに40年の歳月を費やしています
軟弱な地盤の上に、3代目教会の1万3000本の杭に加え、さらに1万本以上の杭を打ち込み、その上に花崗岩や石灰岩を敷き詰めています、この土台だけに5年もかかっています
 
   
   
聖堂の入り口には全部で48本の円柱が立ち、高さ17m、直径1,8m、おもさ14トン、柱を全部建て終わるまでに2年かかっている
  この柱を建てるために使われた装置の模型が展示されていました   
         
 
フレスコ画に描かれた一般的なロシア正教の聖堂とは違うため、一見するとカトリック教会のような内部の印象ですが、十字架は無くイコノスタンス中央に掲げたれています 
  頭上には金色に輝く直径25、、8mのドームを頂く、その随所に彫刻が配されています 
内部はモザイクによって壁画が描かれ、装飾には大理石が使われていて豪華です
 
         
 
聖堂はれんが造りで、外壁には花崗岩が、内壁には大理石が施されています
  聖堂の前に、ピョートル大帝の像が建っています   
         
  血の上の教会 (ハリスト復活大聖堂)

   
   


1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場所は、皇帝遭難の地である。高さは94m
教会の建立は、アレクサンドル2世の跡を継いだ"アレクサンドル3世" アレクサンドル3世によって先帝を弔うために行われた。教会は"グリボエードフ運河" グリボエードフ運河の河畔で、アレクサンドル2世終焉の地に建設された
工事は1883年に着工されたがアレクサンドル3世在位中には完成せず、教会の完成を見たのは次のニコライ2世の治世に入って13年目の1907年である
 
         
     
   綺麗な教会で、印象に残ります
中にも入れてよかったです
   この教会は、ロマンチックなロシア・ナショナリズム、中世のロシア建築の影響を色濃く受けています  
         
   玉ねぎ形状の屋根、無数のモザイク画に彩られた壁面などに、モスクワの聖ワシリイ大聖堂(生神女庇護大聖堂)</a>や、17世紀のヤロスラヴリの教会建築に通じるものがあります   無数のトパーズ、青金石(ラピスラズリの原料)および他の半貴石で飾られ、豪奢な印象もあります 
 
         



   

  食事・その他 

   
  夕食       
         
  レストラン「DENIDOV」チキンとマッシュルームのポテトサラダ     スープ  
     
  バイオリン演奏とダンス がありました   キエフ風チキンカツ   
     
  リンゴのクレープとコーヒー    ネヴァ川沿いのビルもライトアップです   
         











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