四日目 世界遺産  ヒエラポリス-パムッカレ
 




パムッカレ とカッパドキアは、ともに世界でたった29件しか存在しない複合遺産として登録されています
複合遺産は「文化遺産」「自然遺産」それぞれの登録基準のうち、少なくとも一項目ずつ以上が適用された物件をいうそうで、正式名はヒエラポリス-パムッカレ(トルコ)とギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(トルコ)というそうです
       
      これまで、この時代(古代ギリシャ、ローマ)の都市遺跡はほとんどが海岸部に位置しているのに、このパムッカレー
ヒエラポリスは最も内陸部にあることでも有名です
 
パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」「綿(Pamuk)の城(Kale)」という意で、綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによるそうです
その台地の上にヒェラポリス遺跡があるのです
ヒエラポリスには聖なる都市という意味があります
ローマ、ビザンツ時代までの繁栄は続き、大地震とセルジューク朝に町は滅ぼされます
       
 
ヒエラポリスの案内図
 
南ビザンツ門
 
案内板の図を見て驚きました、まさに綿の城です
白い石灰岩の台地の上に町があり、人々の営みが
あったのです、今は少しの柱と石が残っているだけです
北の入り口南の入り口があり、私たちは右手(南門)から入り、中央部分までしか行きません
 
こちら南ビザンツ門です
全体に、今は ただただ広い荒れ地が広がるだけのようで、案内板の町の面影を感じることは出来ません

   
 
建物の一部でしょうか、石の柱が残っています
 
こちらはるか彼方に円形の音楽堂(アップで撮影)
紀元前2世紀に造られたローマ劇場、保存状態が良いそうで、1万5千人収容出来るそうです
   
 
温泉を流したという溝があります
当時から温泉を流して利用していたのに感心します
 
私たちはホテルを7時に出たのですが、15分で着きサマータイムで日本の6時過ぎということで、まだ日の出前です
古代の空気を感じます
       
 
朝焼けの向こうに石灰棚が見えてきました 
 
足湯として入ることができ、生温かい感じです
 

 
 
二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となり、その地下水が温められて地表に湧き出て温泉となります。その温水中から 炭酸カルシウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を 作り出したものである
棚田の畔の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分の沈積が化学的に加速するためでもある
このような景観が200mの高さにわたって形成されている
世界遺産に登録される前は実際ここにつかってのんびりできたのだが、藻が大量に発生して純白の石灰棚を汚してしまった経験から、現在は一部の足湯を除き入浴が禁止されている
   
 
角度によっては温泉水が緑色に写るのですが・・・
 
まだ朝日が完全に昇らず、一部にしか陽が差さず
色が出ないのが残念です
   
 
ヒエラポリス博物館
  これも遺跡かも、1時間の見学時間ではとても回れません
   
紀元前にユーラシア大陸を席巻したアレクサンダー大王の死後、その部下の将軍達が占領した各地に王国を築いたが、その一つがトルコのエーゲ海寄りに築かれた「ベルガモン王国」であり、ローマ帝国の属国的立場 であったが、そのベルガモン王国のエウメネス2世によってこの地に宮殿が築かれ、温泉保養地として栄え、最盛期には人口10万人の大都市であった
博物館の柵越しに吠えあう犬達、トルコの犬は大型犬(シェパードやハウンド系やラブラドール系)ばかりで、 吠える声が大きくてびっくりします、首輪がないので野犬 のようですがちゃっかり温泉に浸かっていて慣れたものです
自由時間は20分ぐらいで、全体を見ることなく1時間後の 8時20分ごろにはバスに乗り出発です、バスの距離が長 いのは仕方ありませんが、全部見学することができずに残念でした
       
       



 コンヤ見学 
 
公共施設がこんな早朝から開いていることに驚きました、日本ならきっと9時開場でそれまで待たされることでしょう
早朝見学を済ませ、シルクロードをコンヤに向け410kmの移動です
ガイドさんに車窓の景色も地域により変わるので二度と同じ景色は見れないと言われたように地中海側沿岸に並ぶ別荘地帯、そしてオリーブの畑、貿易港とは違い、内陸に向かうにつれ砂漠のような広大な地形が広がります
夏にはひまわり畑だったと言われるのですが、もう秋ですからその光景はありません、刈り取られた後の広い台地が広がり、集落はまばら、人子一人であうことはありません。気温も30℃から20℃ぐらいに下がります
冬の間は農業が出来ないので牧畜のみということで、元々昔は遊牧民の土地でしたから
   
 
まったく人を見かけないと思ったら、トラッ数台と30人ぐらい
の集団で農作業をしています
大きな芋のようにも見えるのですがさとう大根の収穫のようで、何度も荷台一杯に積まれたトラックとすれ違いました
 
こちらの景色は山肌にひときわ白く見える部分があるのです
が、大理石の掘削場のようで、こういう光景が何度もあり、この地方の産業ということです

   
  コンヤの街並みが見えてきました、この町自体は先史時代までさかのぼるほど古い歴史をもつが、コンヤがもっとも繁栄したのは13世紀、1077年にルーム・セルジューク朝が
首都をコンヤに移し発展した
  12世紀以降に芸術家や建築家、イスラーム関係の科学
者などを東方から集めて学校が開かれ、コンヤ文化が
花開いた。現在も市内に残っている神学校や遺跡のほ
とんどがその頃のものである
 
インジェ・ミナーレ博物館前
 
インジェ・ミナーレ神学校(当時は)
  イスラム神学校の学寮として造られた、今はイスラム関係の彫刻や浮き彫りの博物館となっている
前を通る女性がスカーフを巻き、身体を見せない服装でイス
ラム圏に来たことを実感します、学生は頭だけ巻き、日本と
変わらない服装の人もいます
 
細い(=インジェ)ミナーレ(左)にこの名がついたと言われ
ます、元はこの3倍の高さがあったのですが、1901年の
落雷で上部が崩壊してしまいこの高さになったそうです
入り口正面を埋め尽くすように施されたアラビア文字、幾
何学文様の浮き彫りが美しいセルジューク様式の建築
 



メヴェラーナ博物館

  旋舞教団として知られるイスラーム神秘主義の一派、メヴェレヴィー教団の創始者メヴェラーナ・シェラールッディン・ルーミ
ーの霊廟6500uの敷地内には、ジャーミィ、僧院、修行場もあります
白い衣装をまとった男たちが音楽に合わせて集団で旋回する儀式は良く知られている
 



 
  緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根を持つ霊廟は13世紀末にオスマン朝時代にシュレイマン大帝らの寄進により建て
られた
メヴェラーナの死後、1925年にアタチュルクの命令によって修行場は閉鎖、教団も解散させられたが1927年3がつ3か
以降、霊廟が博物館として一般公開されている
   
  修行場で個室に仕切られ、煙突のような塔がついています   墓標のようなものが立ちアラビア文字で祈りが書いてある
   
  コンヤからさらにシルクロードを進み、215km先のカッパドキアを目指します 、道路わきは畑か荒野のような感じです   右前方に富士山のような山が見えてきました、この山ともう一つの山の噴火により カッパドキアが出来たそうです
   
  コンヤから約1時間半、キャラバンサイト (隊商宿)にたちよ
りました、盗賊から守る為の強固な造りです
  細かい幾何学文様が彫り込まれています、中は見学できる
ようですが、外だけ観て、日没になります


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食事・他 

 
     
  さとう大根を満載にしたトラックに 何度も出会いました   キャラバン・サライ の土産物店で店番する猫
       
  こちらでもホットのチャイにほっと一息をつきました    店内の土産物と切手もこちらで買いました 
       
 
ホテル
   
       
  ギョレメ カヤ ホテル(部分洞窟ホテル)
数か月前に日本の女優の方が洞窟ホテルに泊まり、そのホテルは1泊30万円だそうで、上には上ありです
  前日のホテルの時、現地ガイドさんから日本の人には水が合わないので、生もの、洗っただけのものは食べないように言われ、火の通った物を選ぶようにしました、ここは大丈夫なようですが、その後も気を
付けるようにしました
       




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