5日目 カウナスーヴィリニュス 



十字架の丘
朝7時に朝食をとり、7時45分ロビー集合、すぐバスにて出発です。
今日はラトヴィアからリトアニアへ国境を越える移動日です。
バスに乗って1時間ぐらいで国境に来ます、手前で左下の写真のような小さな建物で両替です。
リトニアの通貨Litas(リタス)補助通貨はCentas(ツェンタス)です。
リトアニアの面積は北海道の8割ぐらいの大きさで、人口は約338万人、首都はヴィリニュスです。
国旗は1918年に3色旗が制定され、黄は実り豊かな大地、緑は国民の活力と自然、赤は自由を守るために流された血の色を表しています。
十字架の丘

 
上の地図を見るとわかり易いのですが、ラトヴィアのリーガは真ん中の上、バルト海に面していますが、リトアニアの首都ヴィリニュス(黄色)は内陸にあり、今日はそこまで移動します。
その間に、シャウレイ(赤色)のそばの十字架の丘とカウナス(青色)へ寄ります。
リトアニアの北部の街シャウレイの北12kmのところにあるユリガイチャイの丘が見えてきました。
駐車場でバスを降り、ゆるい上り坂を登ると、無数の十字架が見えてきます、その数はおびただしいです。お墓があるわけでもありません。
1831年と1861年の帝政ロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑にされた人々を供養するために建てられたそうです。
その後ソ連時代にはこの丘は禁域とされ、KGBと軍はブルド-ザーを使って何度も破壊したのです、しかしそのつど人々は新しい十字架を立て、ますます増えていったと言います。
抑圧された民族や宗教(ローマカトリック)の抵抗の象徴となり、その数10万本以上の十字架があり、リトアニアの聖地となっています。
近年は海外から、移民の人たちからと、ますます膨らみ続けているそうです。
カウナス

リトアニア第2の都市です。
14世紀の最初に記録に登場する古い町で、15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が設けられ、商業活動の中心部として繁栄しました。

見学の前に、まず腹ごしらえです。
 レストランにて昼食(Bemeliu Uzeiga)
可愛い民族衣装です サラダ
冷製ボルシチとポテト ハンバーグきのこソースマッシュポテトピーナッツ添え
アイスクリーム
ハンザ同盟時代の雰囲気に溢れるお店でしたが、何しろ出てくる食事量が多すぎです。
シチューに大きなポテトが付いて、食べきれないうちにメインデッシュにまた大きなポテトが、みんなで4個だ5個だと言い合い、それだけですでにお腹がいっぱいになる分量で、皆さん食べ切れなかったと思いました。
とにかく、ここの印象は、丸ごとポテトに尽きます。(笑)
カウナス散策

13世紀ドイツ騎士団の攻撃を防ぐために城壁がつくられその後、、重要な川港を擁する交易の中心地として発展を始めます。
15世紀にハンザ同盟の代表部が設けられ、以来商業都市として繁栄し、15世紀のゴシック建築は博物館や美術館になっているものが多く文化的な町として知られています。
カウナスは両大戦の間の22年間、ポーランドに占領されていたヴィリニュスに代わってリトアニアの首都でした。
それで、この町に日本領事館があったのです。

ライスヴェス通りと旧市庁舎

独立広場と旧市街を結ぶ1.5kmの通りがライスヴェス通りで、沢山のお店も並んでいます。
右下は教会のようですが、旧市庁舎で、”白鳥”に例えられる美しいバロック様式の建物です。
リトアニアが帝政ロシア領になってからは政治犯の牢獄として、その後は皇帝の別宅としても使われ、その後現在は結婚登記所となっています。
それで本日も土曜日ですが、花嫁姿が見受けられます。

長い一本道のライスヴェス通り

旧市庁舎
聖ペテロ&パウロ大聖堂


赤レンガの美しい15世紀の大聖堂です。
 その大聖堂の前に結婚式に出席の親族や友人達でしょうか、ほのぼのとした良い雰囲気です。
 こちらでは花嫁を囲んで・・・、それにこんな長いリムジンカーをテレビで見たことがありますが、生で見たのは初めてです。
窓にリボンが付いています。新婚さんは左の車に乗ったと思うので、皆さんで追いかけるのかしら?(笑)
カウナス城


カウナス城

カウナス城
13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られた城です。
広場の裏側にあり、この辺が一番古い地域でネリス川と、ネムナス川の合流地点が見え、ネムナス川は当時騎士団とリトアニアの国境となっていたため、なんどもここで戦闘がおきました。
1363年に騎士団に占領され破壊されましたが、15世紀にヴィタウタウス大公の時代になって再建されました。
城はもともと台形の城壁に4つの塔を持っていましたが、現在あるのは写真の塔と城壁だけです。
 「希望の門 命のヴィザ」杉原千畝


門に「希望の門 命のヴィザ」とあります

仕事机
「日本のシンドラー」と言われ、6000人もの命を救った杉原千畝さんの住まいだった日本領事館です。
1940年の7月カウナスのこの日本領事館の前に突然の人垣が出来ました、左上の門の前です。
彼らはナチスに追われ、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人です。その要求は日本の通過ヴィザで、当時すでにヨーロッパにユダヤ人が安住できる場所はなく、シベリアを経由してアメリカ大陸に逃れるのが唯一生き残る可能性を秘めた道でした。
当時の日本領事代理、杉原氏はヴィザ発給の許可を何度も日本に打つが、返ってくる答えはそのたびに”否”でした。
ドイツと同盟を結んでいる日本の答えでした。
この前年ドイツとバルト三国併合の秘密協定を含む平和条約を結んでいて、リトアニアにもソビエト兵がすでに入場していました。
日本領事も一刻も早い撤去を求められていました。その期日の近づく中、杉原氏は決断を迫られました。
領事館前には群れをなし、救いを求めるユダヤ人達を無視することが出なかった彼は、本国の指示にそむいて、独断でヴィザを発行することに決めました。
「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない、でなければ私は神にそむく・・・・」
その後約半月の間に彼は昼夜を分かず、ペンが折れ、腕が動かなくなるまでヴィザを書き続けました。
リトアニアを脱出する列車の中までそれは続き、これによって実際に日本を経由し、第三国にわたることが出来たユダヤ人は6000人を超えると伝えられています。(右上の写真は職務の机です)
彼の功績はリトアニアでも評価されて、ヴィリニュスには彼の名前を冠にした通りが生まれ、彼を記念して桜の植樹も行われています。
カウナスの旧日本領事館も杉原記念館として保存されています。
私達もここを見学し、ビデオで彼の功績を知ることが出来、とても感動しました。
それからプラハ、ドイツ、ルーマニアへ人事異動し、最後はシベリアで抑留生活をし、1947年に帰国した彼に、外務省は「君のポストはない」と依願退職させます。(ようするに首です)
その後、ロシア語が出来、ロシアに精通していたので、貿易会社のモスクワ事務所で働き、75歳で、鎌倉の自宅に隠棲し、最後はその自宅で86歳で亡くなられています。
1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の諸国民の中の正義の人として「ヤド・バシェム賞」を受賞。
同年11月、エルサレムの丘で記念植樹祭と顕彰碑の除幕式が執り行われ、高齢の杉原氏に代わって息子(四男)さんが出席したそうです。
日本の外務省が名誉回復をしたのは、1991年と半世紀も経ってからでした。
その年の10月に鈴木宗男外務政務官次官(当時)が幸子夫人を招き、杉原副領事の人道的かつ勇気ある判断を高く評価し、杉原副領事の行動を日本人として誇りに思っている旨、また、50年にわたって外務省と杉原副領事の家族との間で意思の疎通を欠いていたことは不幸なことであった旨を伝えました。
また、杉原氏の生誕百周年に当たる2000年(平成12年)に、外務省は、杉原氏の業績をたたえる顕彰プレートを外交史料館に設置した。
その序幕式で当時の河野外務大臣は、故杉原氏とその遺族に対して、「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。 」
「今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。」
と語り、戦後の外務省の対応について、初めて外務省の非礼を認め正式に謝罪をしたということです。
諸外国においても、シンドラーに比較すると知名度は低いが、一個人として救ったユダヤ人の数はシンドラーの何倍にもあたることもあり、高く評価されています。

リトアニアの杉原記念館のサイト

日本の杉原千畝記念館のサイト
 ヴィリニュス

NOVOTEL HOTEL

NOVOTEL HOTEL

公園に面した部屋
カウナスから首都ヴィリニュス向かいました。大きな街です。
今夜のホテルはNOVOTEL HOTELですが、その前の公園と通りが人で賑わっています、お祭りのようです。
ホテルの前にバスを止めることが出来ず、少し離れたところで降りました。

部屋の真下が公園です

ゲームをしています
部屋の窓から写しました。通路にはテントがあり、公園では大きな映像が映り、イベントをしていました。
右上の写真は、リンクのようなところにヨーロッパの地図があり、クイズのような問題を出し?子供が答えの国に行くと、そういう感じがします。
とにかく食事まで少し時間があるので、散策することにします。
可愛い出店がいっぱいです。
左上は手作りのいろんな指人形とフェルトの帽子です。
右上は革製品です。食べ物屋も沢山出ていました。
ホテルでの夕食はブッフェスタイルで、この写真だけでした。

夜の大聖堂

劇場の入り口
夕食後、また散策に出ました。
お店は片付けているところが、多かったです。
夜の大聖堂と通りにあった劇場の入り口です。上の3人の像が迫ってくるようです。


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