2日目後半 国立人類学博物館
    

 国立人類学博物館の中庭
 
  チャプルテペック公園内にある、メキシコ古代文明の集大成と言われる国立人類学博物館は世界でも有数の規模と内容を誇る博物館です
テオティワカン、マヤ、アステカなどの遺跡
から、永遠に保存すべき発掘品を選りすぐって展示しています、各地に点在する遺跡の重要な壁画や石碑は、現地の神殿内ではなく、すべてここに集められています

この博物館は、ロペス・マテオス元大統領が任期を終えるにあたり、メキシコ国民のために記念となる物を残したいと望み、建築家ラミーレス・バスケス氏の設計により1964年に建設されました。

1階考古学フフロアーには12室の展示室があり、2階は民族学フロアーとなっています

第1室先住民文化     第2室人類学入門      第3室アメリカの起源    
第4室先古典期      第5室テオティワカン     第6室トルテカ
第7室メヒカ(アステカ)  第8室オアハカ        第9室メキシコ湾岸
第10室マヤ         第11室西部         第12室北部


 
 
   
 
  チャプルテペック公園を通っていると、ジャカランタの木がありました、スペイン、モロッコでも見かけた木の花ですが、桜の繊細さと違い、大胆な雰囲気がラテンだと感じさせます    同じくチャプルテペック公園内をさらに行くと、公園で一本の高い棒に民族衣装を着た3人かの男性が、ロープで回転しながら下りてきます、(トトナカ人の伝統曲芸ポラドーレス)  
 
 
 
  国立人類博物館の正面です、上に出ているのは、上の写真の入り口を出てのすぐの場所にあり、屋根を突き出ている柱が見えます、
あれは、右の写真のように、大きな板状の屋根に一本の突き抜けた柱に、神々の伝説の画がモチーフになっています

一番上の写真は、入り口の反対側から撮った写真で展示室の建物が取り囲む中庭があります
  上の柱とそこに描かれた太陽の図は、1970年に岡本太郎により建てられた「太陽の塔」を彷彿とさせます
現地ガイドさんの話によると、それでメキシコの方達は、こちらの年度が先なので岡本氏が真似したと言っているそうです、そう言えば岡本氏はメキシコで制作活動(1967年〜69年ホテルの壁画)されていましたから、岡本氏の作品の原点はメキシコにあり、だったのかもしれません。そう言えば、メキシコでは太陽はあのような顔でいたるところに描かれています
 
 
  第5室テオティワカン
     
 

ケツァルコアトル神殿(レプリカ) 
 
   前頁で訪れたテオティワカンの南側「死者の道」の方角に、このケツァルコアトル神殿がありました、その見学はなかったので、レプリカですが同じものが見れて良かったです
ケツァルコアトルとは、アステカ人の言葉であるナワトル語で「羽毛の生えた蛇」という意味で、マヤ語では「ククルカン」と同じとされています、
ケツァルコアトル(羽毛の生えた蛇)は雨や水を支配する神様であり農耕や宗教的な知識を教えた神様でもあります
その右側にある大きな目玉と牙のある像がトラロック、これも雨と豊穣の神様で、マヤではチャックと呼ばれています
 
         
   太陽の円盤と呼ばれ、太陽のピラミッドの前にあった円盤です、ドクロは太陽の神トナティウを表している   こちらも、ケツァルコルトとトラロックです  
 
 第6室トルテカ     
     
         
  トルテカ文明の中心地として栄えたトゥーラ遺跡の「戦士像」が中心に展示されています    色鮮やかな「戦士像」です   
         
 チャックモール、生贄の心臓を置く台形は少し異なりますが、用途はマヤと同じです 4,6mの像は、遠く離れたチチェン・イツァー遺跡にも似たものが残っています  
 
 第7室メヒカ(アステカ)
 
 

正面奥の壁にあるアステカ・カレンダー
 
  中央部の広いフロアに配置された、この博物館最大の見どころです
その中心は、巨大な石に彫り込まれたアステカの暦を図形化した太陽の石「アステカ・カレンダー」です。直径が3,6mの大きな石です。
太陽神の周りにある4つの四角形に囲まれた文様は、宇宙が今まで経てきた4つの時代を示している、各時代ごとに新しい太陽が生まれ、滅び、そしてそして現在は5つ目の太陽で、中央でナイフのような舌を出しているのは、生贄をを求めているとされます
太陽暦はさらに細かいモチーフの組み合わせにより、20日を1か月とする1年18か月と余りの5日間を合わせた365日で、余りの5日間は宗教生活も世俗的な活動も控える不吉な日だった。
これと並行して、250日を1サイクルとする占星術のための暦も存在した、アステカの人々はこのカレンダーをもとに、正確な農耕暦に従って労働し、その節目ごとに血の生け贄を伴う祭事を行っていました
二つの暦が再びかみ合うのは、最小公倍数の1万8080日(52年目)となり、アステカ人はこの52年を1周年と考える循環史観というもので、生活していたとも言われます
 
 
 
 
 
  このアステカの暦石はかつてのアステカ帝国の都テノチテイトラン 中央広場(現在のメキシコシティノソカロ広場)に捨てられていたそうです   これは中央の台座に置いてある石の側面の兵士の細かい彫りです   
         
  エルナン・コルテスに征服される前のメキシコシティ、テノチティトラン復元図 です、湖に浮かぶ島の雰囲気が伝わります   こちらは、その復元模型です、現在のソカロ周辺にピラミッドが並び、宗教儀式が行われていたと想像できます   
         
   巨像も並んでいます   黒曜石の器、細かく彫られたサルが特徴(国宝級だそう)   
 
  第9室 メキシコ湾岸
     
 

 
   
  オルメカ文明、ペラクルス州の巨大人頭像 、玄武岩のないところで発見されています   ペラクルス州で発見された紀元前600-紀元前100年頃の力強い「戦士の像」です   
 
 第10室 マヤ     
     
 
 
 
  チチェン・イツァやパレンケ など、主に古典期以降(300-900頃)ユカタン半島で栄えた遺跡からの出土品が並びます
中でも、このパレンケの「碑文の神殿」から発見されたパカル王翡翠の仮面と復元された墓室は、ピラミッドが墓の役割を果たしたことを証明する大発見でした
碑文の神殿の地下王墓が実物大で復元され、埋葬品が保管されています
パレンケの神殿は地下に王墓を造り、エジプトと同じような役割、構造をとなっています、明日、私たちもパレンケを訪れるので楽しみです
 
         
  カラクルムの石碑、即位20周年を祝う文が刻まれています 
マヤの歴史的エピソードが描かれたモチーフです
  密林に住んでいたマヤ人は高度な文字と数字を持っていました、そのマヤ文字で描かれた石碑です   
 

 食事・その他
 
     
         
   テオティワカン遺跡まで市内から1時間ほどかかるのですが、その行き帰りの道中の山手にびっしりと住宅が ・・・   あっちの山にもこっちの山もそうですが、スラム街で勝手に建てるそうで、水道もガスもない地域があるそうです   
         
   交差点で、何故か日本と光景が違うと感じるのは、自動車の向きが皆同じだからです、メキシコシティの道路は一方通行で、荒っぽい運転でも事故は少ないそうです   メキシコシティでは、レンタルサイクルも完備していて、エコビシーと言い、メキシコシティ内に275ある専用ステーションにある自転車を利用出来るとか、先にチケットを買うそうです  
         
   良く見かけるクルマに、日本車は多く、中でも日産車は歴史も古く1959年にメキシコに現地工場を建て定評のあるブランドだそうで、、サニーの名前はTURU(これは良く見かけました)、またはHIKARI、シルビアがSAKURAと呼ばれています   以前汽車はありましたが、電車がなく(今は部分、地下鉄もあるそうです)主要交通機関は車だそうで、市民の足もバス中心です、貨物はこんな長い連結トラックが高速道路を走っています   
         
  月のピラミッド近くで実演です、植物の茎にサボテンの汁を付けて 紙に書くと赤色になります、こういう自然のものが色付けに使われたということでしょう   ホテルに戻り、一休み後歩いて、生音楽レストラン「エル・ルガール・デルマリアッチ 」で、生演奏と歌を聴きながら夕食を頂きました  
 
 
   
 
   メインディシュのメキシンカンステーキ(いわゆるハラミとか)   デザートの様でもあります、フルーツと   
         


 





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