6日目 オシフィエンチム(アウシュビィッツ)・ビルケナウ
 6日目オシフィエンチム(アウシュビィッツ)・ビルケナウ (世界遺産)
 
  オシフィエンチム(アウシュビッツ)
   
 

 
 
以前から旅行する友人と、広島の原爆と同様、人類の負の遺産としてのアウシュヴィッツを訪れて、この目で見て感じ、心
に留め置きたいと思っていました、ようやく今回実現することになりました
アウシュヴィッツというのはドイツ名で、ポーランド名はオシフィエンチムといい、クラクフの西54kmのところにある町の郊
外にあります、クラクフから1時間と少しで到着です
  アウシュヴィッツ第一強制収容所はドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)に、ア
ウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)につくられた、周辺には同様の施設が
多数建設されている、ユネスコの世界遺産委員会は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年
に世界遺産リストに登録した、公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「負の世界遺産」に分類されることがしばしばで
す 一部現存する施設は「ポーランド国立オシフィエンチム博物館」が管理・公開している 、写真は遮断機付きの入り口です
 
   
 
第二次世界大戦が始まりポーランドがナチス・ドイツの支配
下におかれていた1940年、この収容所はポーランド人の
政治犯を収容するために造られました
駐車場から、受付の建物まで行く道中、ポプラ並木が続き
ます、次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜をも収容するよ
うになり、施設は拡大され、一大殺人工場とかしていくのです
 
   
4号棟:他民族撲滅計画
5号棟:ナチスの犯した犯罪の証拠
6号棟:囚人の生活
7号棟:囚人の住居、衛生状態
10号棟: 囚人を使った人体実験
囚人を餓死させるための「餓死室」や、狭い部屋に数人の
人間を閉じ込める「立ち牢」などが残されている、この10
号棟と、11号棟の間にある壁は「死の壁」と呼ばれ、銃殺
に使われました
21号棟:イタリア、オランダ
20号棟:フランス、ベルギー
18号棟:ハンガリー、ブルガリア
17号棟:旧ユーゴスラビア、オーストリア
16号棟:チェコ、スロヴァキア
15号棟:ポーランド
14号棟:旧ソ連
13号棟:ロマ
27号棟:ユダヤ人の殉職と戦い
「各国の展示」は、ここアウシュビィッツに収容された囚人の
母国が母国が戦後「アウシュビィッツ」をテーマにして制作し
た作品が展示されています、いかに多くの国から「囚人」が
送り込まれたかがわかる
 
   こちら、収容所の案内図です、右は展示内容です  
   
 
こちらが入り口の「ARBEIT MACHT FREI「(働けば自由に
なる)という文字が掲げられていますが、どんな思いで収容
者たちはくぐったことか
そしてBの文字が反対に作られている(上が大きい)のは、
収容者が作らされた時のせめてもの抵抗の証という説があ
ります
収容所の周りに張り巡らされた高圧電線
アウシュヴィッツ全体の警備は約6,000名のSS(親衛隊)に
よって行われているにすぎず、対して被収容者は最大で14
万人を数える、それで精神的に見せしめによる擬似的な体
験、連帯責任制や強烈な恐怖心を抱かせる懲罰の流布など
により、被収容者を心理的にコントロールした
 
   
 
「オーケストラ」が組織されていた写真です、強制収容所到
着直後の被収容者には明るい曲を、強制労働に向かう被
収容者には行進曲を奏でたとされる
オーケストラの存在は、収容所が「人道的に」運営されてい
ると主張するための、カモフラージュの一環として行われた
地政学的には「ヨーロッパの中心に位置する」「鉄道の接続
が良い」「工業に欠かせない炭鉱や石灰の産地が隣接する
」「もともと軍馬の調教場であり、広い土地の確保が容易」など、広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の
労働力を集め、戦争遂行に欠かせない物資の生産を行う
のに適していると言える
 
   
 
広範なドイツ統治地域の中心に位置するアウシュヴィッツさ
まざまな国・地域から送られてきた人々の終の地となった
殺された人々の数は、28の民族、150万人に上ると言わ
れている、ただ正確に把握できていないそうです
二度と起こしてはならないとしてここで殺され、焼かれた人の灰が収められ、それが展示されています 
 
   
 
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシ
ー)、精神障害者、身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、
さらにはこれらを匿った者など、ドイツ本国の強制収容所閉
鎖による流入や、1941年を境にして顕著になった強引な労
働力確保(強制連行)により規模を拡大する 
次第に顕著となったアーリア人至上主義に基づいた「アーリ
ア人以外をドイツに入国させない」といった政策が国内の収
容所の閉鎖を推し進め、ポーランドに大規模な強制収容所
を建設する要因にもなった、、ピーク時の1943年にはアウシ
ュヴィッツ全体で14万人が収容されている
 
   
 
ガス室での大量殺戮に使われたのはチクロンBという殺虫剤(青酸化合物)が使われていた、1缶で150人を殺せる
労働力確保の一方で、労働に適さない女性・子供・老人、
さらには劣等民族を処分する「絶滅収容所」としての機能
も併せ持っていました(ホロコースト)
その使用されたチクロンBの空き缶の山です 
一説には「強制収容所到着直後の選別で、70〜75%がなん
ら記録も残されないまま即刻ガス室に送り込まれた」とされ
ており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもで
きていない 
 
   
 
収容の際に没収されたもので、おびただしい数の眼鏡フレ
ーム
たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使
い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられました
労働者の肉体的消耗を目的とした労働で、たとえば、石切
り場での作業や道路の舗装工事などを行う「懲罰部隊」が
これにあたる、場合によっては、「午前中は穴を掘り、午後
その穴を埋める」といったような、なんら生産性のない作業
を命じられることもある、懲罰部隊に組織された被収容者
の多くは短期間のうちに死亡したとされる
こちらはカバン類

労働力のふたつ目は、戦争遂行に欠かせない資材・兵器な
どの生産や、収容施設の維持・管理などを目的とした労働
で、工場労働者や各施設の拡張・管理作業などがこれに該
当し、何らかの技能や知識(電気工事師、医師、化学者、
建築士など)を持つ被収容者が作業にあたった。懲罰部隊
での労働と比較して程度の差こそあれ、劣悪な食料事情や
蔓延する伝染病などにより命を脅かされる状況にあったこと
に違いありません
 
   
 
8万足の靴
労働力三つ目は、所内で死亡した被収容者の処分を目的
とした労働、ガス室や病気、栄養失調などで死亡したおび
ただしい数の遺体を、焼却炉などに運び処分する「ゾンダ
ーコマンド(特別労務班員)」がこれに該当する、比較的待
遇は良かったが、一方で口封じのため数ヵ月ごとに彼ら自
身も処分された、1期から13期まであり、解放直前に結成
された12期のメンバーは武力蜂起による反抗を試みている
ブラシ、ひげそり用ブラシ等洗顔用品等
必要な労働力の最後は、ほかの被収容者たちを監視する「
カポ(労働監視員、収容所監視員などと訳される)」である、
主に第一収容所のドイツ人犯罪者から選ばれることが多か
ったとされ、被収容者ヒエラルキー(階層構造)の頂点に立っ
た、戦後、過酷な懲罰を課したことで裁かれる者もいたとい
うことです
 
   
 
貨車で運ばれてきた人々は、即選別され「労働者」「人体実
験の検体」、そして「価値なし」などに分けられた、即刻の処
分を免れた被収容者は、男女問わず頭髪をすべて刈り、消
毒、写真撮影、管理番号を刺青するなど入所にあたっての
準備や手続きを行う、管理番号は一人ひとりに与えられ、
その総数は約40万件とされる、私物は「選別」の段階までに
、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収されており、
与えられる縦じまの囚人服が唯一の所持品となる。最後に
、人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた
囚人服には「政治犯」「一般犯罪者」「移民」「同性愛者」、さ
らには「ユダヤ」などを区別するマークがつけられている、こ
れは、強制収容所内にヒエラルキー(階層構造)が形成され
ていたことを意味し、労働、食事、住環境など生活のあらゆ
る面で影響を及ぼしたと考えられる
ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層に
ユダヤ人や同性愛者、ロマ・シンティが置かれ、下層にあれ
ばあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間などあらゆ
る面で過酷状況に置かれ、死亡率も高くなった
 
 
   
 
価値なしと判断された被収容者はガス室などで処分となる
その多くが「女性、子供、老人」であったとされる。ここで言
う「子供」とは身長120cm以下の者を指すが、学校や孤児
院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査
もなく、引率の教師とともにガス室へ送られた 
ナチス政権下のドイツ政府の制定した法の多くがそうであっ
たように、選別は、「法令」に比べ規範(簡単に言えばルー
ル)のあいまいな「訓令(または通達)」を受けて遂行されて
いる、このため個々の事例で、具体的にどのような行為が
行われたのかが書面として残っていないことも多く、戦後の
各裁判での事実認定を難しくしている主な原因となっている  
 
 
 
 
10号棟と11号棟の中庭の正面の壁が、 抵抗組織の人々が銃殺された「死の壁」です
常におこなわれていたのでしょう、これに面した部屋の窓は見えないように板が張り付けられていました
 
   
   銃殺された壁の前に、花が添えられています 現在の修理され、当時と 変わらない光景とのことです  
 

 ビルケナウ
   
 
 
 
 
被収容者増を補うため、1941年10月、アウシュビッツ強制収容所から2kmほど離れたところブジェジンカ村に絶滅収容所
として問題視される「第二強制収容所ビルケナウ」が開所、、総面積は1.75平方キロメートル(東京ドーム約37個分)で、
300以上の施設から成る、建設には主にソ連兵捕虜が従事したとされる、ピーク時の1944年には90,000人が収容された
そのほとんどはユダヤ人であり、このほかに主だったものとしてロマ・シンティ(ジプシー)が挙げられる
アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」は1944年5月に完成
 
   
 
「死の門」と呼ばれた入り口 のゲートです 
今は2階は展望室になり、上から眺めることが出来ます
ユダヤ人を乗せた貨車はゲートをくぐり、この収容所が終
点です、2階から眺めると、広々とした土地の大きさが分か
ります、「死の門」周辺で、遠くの見学は出来ませんでした
 
   
 
緑の広大な敷地に300余りの施設が建設された 
施設跡がありますが、木造のバラックのような建物だったそ
うです、この地域は、夏は最高で、摂氏37度、冬は最低で、
マイナス20度を下回る、もともと、ポーランド軍の馬小屋であ
ったものもあるそうです
収容施設は、家族向けの監房、労働者向けの監房、女性専
用の監房などに分けられており、1943年以降に建てられた
南側の収容施設(全体の3分の1程度の棟数)は、湿地の上
に満足な基礎工事もなく建てられており、特に粗末なつくりで
あったと伝えられている、ここには主に女性が収容された
 
 
 
 
 
バラックによっては、内部が使用されていた当時のままに保存さているものがあり、自由に中に入って見ることが出来ます
映画のセットではなく、実物だと思うと怖いですね 、蚕棚のようなベッドに大勢の収容者たちが身を寄せ合って眠ったとこ
ろです、マットレスの代わりにわらを敷いて使用していた、映画「シンドラーのリスト」にも出ていたと思います
中央にあるのは暖房施設のようですが、暖房資材は用意されず使われなかったそうです
 
   
 
こちらは粗末なトイレです 、一日2回とその使用も限定され
ていました、きわめて非人間的扱いがなされていました
ちょうど見学中にも雨が降り、その後上がった後もぬかるん
だり、水たまりが出来たりと湿気の多い土地です 
 
   
 
ハンガリーから到着したユダヤ人(1944)
この地で150万人が死んだことを後世に伝える(第二強制収
容所)慰霊の碑文があります(線路の終点地に)
やはり高圧電線が周りを取り囲んでいます見張り小屋もあり、監視されていました
ドイツ軍により破壊されたガス室等へは行けませんでした
 
 
  
ユネスコ世界遺産委員会は2007年6月27日に「アウシュヴィッツ強制収容所」から「アウシュヴィッツ・ビルケナウ ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940年-1945年)」へ変更したそうです
日本人の見学はこの当時(2010年)で、約7000人だったそうですが、最近(2013年)は1年に1万人近くにはなったそうです 
私自身知らないことが多く、引用が多くなってしまいました、勉強して自分の言葉に置き換えられたら書き直したいと思います
この日の午後にクラクフの見学がありましたが、次の日のクラクフ歴史地区観光に入れました
 
       


 


Wroclow、 Warszswa、 Krakau、 Wroclow、 Warszswa、 Krakau、 Wroclow、 Warszswa、 Krakau、


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送